小心者の杖日記

2015年11月17日

かちゃくちゃくん死去

 かちゃくちゃくんに初めて会ったのは、1999年2月6日の広末涼子の日本武道館公演後のことでした。きっかけは、それ以前に彼が僕にメールをくれたことだったと思います。そのメールのやりとりで、かちゃくちゃくんは高校生だと言っていたのですが、当時彼が運営していた大衆決断というサイトを見ると、あまりにもサブカルチャーに詳しいので、とても高校生だとは信じられませんでした。ところが、広末涼子の日本武道館公演後に、「人が多いので目印に物販で買ったTシャツを頭に載せています」と電話した僕のところに笑いながら寄ってきたかちゃくちゃくんは本当に高校生だったのです。

 彼の訃報がメールボックスに届いていることに気づいたのは、日付が2015年11月16日になったばかりの頃でした。初めての出会いから16年ほどが過ぎていました。

 通夜は2015年11月17日。たくさんの人が焼香のために並んでいましたが、喪服の僕は「かちゃくちゃくんにこんな場は似合わない」と漠然と感じながら、現実を理解しかねている状態でした。焼香する番になって、彼の奥さんの姿を見るまでは。

 焼香が終わり、接待所で知らない人ばかりの中でひとりでビールを飲んでもまったく酔えませんでした。訃報を知らせてくれたミツノくん、そしてミヤビさんや眞鍋さんが焼香を終えて接待所に来て、ようやく現実の感覚を取り戻せた気がします。彼らとも会うのは10年ぶりぐらいのことでした。

 その後、かちゃくちゃくんと最後の対面をするために寺の本堂へ通されたときには、彼の顔を見ながら「なに死んでるんだ、早く起きろ」と思うのみで、ただ立ちつくすことしかできませんでした。

 出会った1999年から、かちゃくちゃくんが就職するまでの間は、よく連絡も取り合い、遊んでいる仲間でした。彼もまた初期テキストサイトの落とし子だったのかもしれません。今回の訃報で、僕とほんの8歳差であることに気づいたのですが、それが意外なほど、かちゃくちゃくんはいつも若く感じられました。年齢と不釣り合いなほどに博学で、自分自身のことはあまり語らず、そして声がでかくてズバズバと物を言う。僕の中で彼はずっとそんな「若者」であり続けていました。

 記憶を掘り返してみれば、TINAMIXが始まる頃に東浩紀さんを紹介してくれたのもかちゃくちゃくんであったと思います。僕が文筆を志すきっかけになった鶴見済さんに、かちゃくちゃくんが通っていた早稲田大学のイベントで会わせてくれたこともありました。年齢こそ僕のほうが上ではあるものの、彼のほうがいつもアグレッシヴに動いていた気がします。

 最後に会ったのは、2009年9月11日に開催された「分別ざかりの無分別」vol.1というイベントでした。DJに山本直樹さん、ライヴに忘れらんねえよも出たイベントで、かちゃくちゃくんもryuto taonさんとの「ryuto taonと抱擁家族」でライヴをしました。DJの末席にいたのが僕です。

 それから何を揉めたというわけでもなく、なんとなく疎遠になり、彼は社会人として忙しいのだろうなと、Twitterアカウントを見つけたときには思っていました。そんな状態だったので、彼の私生活の変化も、今回の訃報までほとんど知らないままだったのです。

 通夜と葬儀の案内がミツノくんから送られてきて、かちゃくちゃくんと僕の共通の友人の何人かに連絡しました。しかし、2000年頃のインターネットでの交友関係を思い出す作業は、この「小心者の杖日記」でかなり記録を残している僕にも難しく、また思い出しても連絡を取るのは困難な部分がありました。サイトが消失したままインターネットから姿を消している人もいれば、OrkutやmixiのアカウントはあるもののTwitterやFacebookのアカウントはない人もいました。

 かちゃくちゃくんと共通の友人を探すハブになったもののひとつはナンバーガールでした。大衆決断には「NUMBER GIRL DISTORTIONAL ADDICT」というコンテンツがあり、彼がナンバーガールを見るためにいかに遠征をしていたかが記録されています。2002年5月19日に日比谷野音でのナンバーガールのライヴを一緒に見に行って、雨に降られたことも思い出します。そのとき、僕らと一緒にライヴを見た女の子とは残念ながら連絡が取れませんでした。

 2002年11月30日のナンバーガールの解散ライヴは札幌でした。かちゃくちゃくんはそのために北海道へ行ったひとりです。



 解散ライヴの「OMOIDE IN MY HEAD」を見ながら、そのナンバーガールを世に送り出した加茂啓太郎さんに、かちゃくちゃくんの訃報が届く直前に会ったことを思い出しました。加茂啓太郎さんとは、寺嶋由芙さんが「Great Hunting」からソロ・デビューする時期に親しくなったのですが、そんな僕はかちゃくちゃくんにどう見られていたのだろうか。あるいは視野にも入っていなかったのだろうか、と。2000年頃、僕のテキストをもっとも熱心に、そして厳しい目で読んでくれていたのはかちゃくちゃくんでした。

 訃報の後に久しぶりに彼のTwitterアカウントを見ると、ツイートの数こそ少ないものの、サブカルチャーへの熱意を感じさせる彼の姿がそこにはありました。ギラギラしているほどに。少なからぬ過去の友人たちと距離を置いていたのに。

 通夜の後にみんなで入った串カツ屋では、かちゃくちゃくんに本を書いてほしかったという声もありました。でも、大衆決断とそのはてなダイアリー版、ryuto taonと抱擁家族のMySpaceSoundCloudには、彼が熱かった時代の記録が残っています。

 そしてまた本人も、落ち着いたらこれからまた何か......というときに突然の事故でこの世を去ったのかもしれません。

 かちゃくちゃくんの編集者的なセンスは、僕から見ると、東京の中心部で生まれ育った人ならではのものでした。僕はこの世に残ってしまっているから、いろいろあるけれど、もうちょっともがいてみるよ。文章を書き続けてみるよ。通夜が終わってからずっと、そんなことを考えています。

[ 日常 ]
投稿者 munekata : Permalink
記事一覧
月別アーカイブ
Powered by
Creative Commons License
このウェブログのライセンス: Creative Commons License.