小心者の杖日記

2011年7月21日

中村とうようさん死去

 中村とうようさん死去。僕が見た第一報は「中村とうようさん自殺か ほのめかす文書発見 ― スポニチ Sponichi Annex 芸能」でした。

 僕が彼の文章を読み、名前を知ったのはもちろん「MUSIC MAGAZINE」でしたが、思い出すのは1991年に最初に日本で開催されたワールドミュージックのフェスティヴァル・WOMAD横浜のことです。そのとき、インドネシアから来日したロマ・イラマの登場前に、彼を紹介するために中村とうようさんはステージに立ちました。当時大学1年生だったか、ワールドミュージックの仲間などいなかったのでひとりで行った僕はとうようコールをしていました。みんな叫んでたなぁ。

 そんなことを思い出すのは、世界の未知の音楽を紹介する人、という中村とうようさんのイメージがそこに凝縮されているからでしょう。「MUSIC MAGAZINE」で「中村とうようの100枚」のような特集があったとき、僕は後々までその作品群を探し求めました。彼が編集したオーディブックの「大衆音楽の真実」のCDブック全3巻も買ったものです。あそこで初めて聴いた音楽がどれほど多かったことか。一時期は大道楽レコードのCDも収集していました。

 最初に言葉を交わしたのは、新宿の東長寺で開催された説経節の二代目若松若太夫さんの公演です。そのときスタッフだった僕は、中村とうようさんからチケットをもぎりました。

 高校生の頃に矢野顕子の特集目当てで買ったら、いつの間にかワールドミュージックの記事を熱心に読むようになった「MUSIC MAGAZINE」。2000年から僕は執筆させてもらうようになりました。そして、「アルバム・ピックアップ」でワールドミュージック関連の作品を批評するときに意識したのは、「アルバム・レヴュー」で採点している中村とうようさんの存在でした。沖縄や奄美の島唄に対する考え方は次第に離れていきましたし、特に僕が「アルバム・ピックアップ」を担当した北村大沢楽隊 「疾風怒濤!!!」では、「アルバム・レヴュー」で中村とうようさんが0点を付けるなど、評価がまっぷたつになる事態も。「とうようず・トーク」に僕の名前が出てきたときには、認識されたのかと嬉しかったのも束の間、僕の原稿が他の人を批判するきっかけになっていてひどく困惑したこともありました。

 僕もまたあの「中村とうよう」という絶対的な評価軸に育てられたひとりです。だから彼の評価と自分の評価が乖離しても、「老害」と悪態をつかせるぐらい生き続けてほしかったのです。

 近年の中村とうようさんが、死後のための準備であることを明言しながら武蔵野美術大学に蔵品を寄贈し、「MUSIC MAGAZINE」のワールドミュージックの「アルバム・レヴュー」を降板し、ミュージック・マガジン社の会長職も辞していく姿には、潔さとともにどこか厭世的なものを感じていました。3.11以降の福島第一原発事故に触れても、80年代の言動からは信じられないほど冷めたトーンであったことにも驚きました。

 そして飛び降り自殺(このエントリー執筆時点での警察の見方)とは、予想だにしない最期でした。最後に中村とうようさんを見たのはいつだろうと思い出すと、EL SUR RECORDSで姿をお見かけした日でした。あれはいつのことだったでしょう。

 僕は高校生で「MUSIC MAGAZINE」を初めて買ってから書き手になった現在まで、1冊も捨てていません。できるならば、絶対的な権威として君臨して僕ら後進の音楽評論家に悪態をつかせてほしかった。そんな甘えも、もはやかないません。

 「asahi.com(朝日新聞社):音楽評論家の中村とうようさん、自宅から飛び降り自殺か - 社会」によれば、「21日に複数の知人に『それではみなさん、さようなら』などと書かれた手紙が届いた」とのこと。こんな最期があるか、「中村とうようコレクション展」であなたが司会進行するSPレコードコンサートは絶対行く気だったのにまだじゃないですか、サカキマンゴーのコンサートだってまだやってないのに……とうめくように考えていました。

 ご冥福を、とはあえて言いません。中村とうようさんの有形、無形の遺産をなにがしかの形で継承したい。そう考えます。

 でも、中村とうようさん。あの日チケットをもぎった東長寺にあなたがお墓を買ったのはまだしも、もうそこに入ってしまうことなど、本当に想像もしていなかったのです。

 あなたの眠る場所に、世界の音楽が響いていますように。感謝します。

[ 音楽 ]
投稿者 munekata : 2011年07月21日
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コメント

こんにちは。お久しぶりです。更新のお知らせありがとうございました。

中村とうようさん、僕もびっくりしました。中村とうようさんで僕が一番思い出すのは「日本語ロック論争」だったような気がします。今更ながら調べてみると1971年にあった話のようなので、僕が洋楽にはまりこんだのはこの2,3年後頃からなのですが、でもまだその頃も「ロックは英語で歌うか歌わないか」なんて話があった時代だったように記憶しています。今となっては「そんなことで論争になるのか?」と言った感じかと思いますけど。まだ日本のポピュラーミュージック(いわゆる歌謡曲ではなく)がごく限られた領域だった故の論争(?)だったのでしょうか。

話は変わり、ここのところのPerfumeの活動は何なのでしょう。Cars2はもういいから早くアルバム出して欲しい、と願うばかりです。

投稿者 Leo : 2011年7月27日 11:30

昨日の朝刊の訃報記事を目にして、つい叫び声をあげていました。

なんか、そういう死に様が一番似合わなさそうに感じていた人でしたので…

以前、加藤和彦氏が亡くなった際の特集号での「とうようズ・トーク」で、「繊細すぎる人だったので、彼がそのような死に方を選らんだのも理解できる」といった主旨の発言をされていたのが、ついこの間のことのように思い出されます。
近頃はMM誌の定期購入もしていないので、とうよう氏が最近どのようなスタンスに立たれて発言されていたのかは詳しくは知りませんが、大分頑迷な印象がありました。

氏の言葉で記憶に深いのは手塚治虫氏が亡くなった時の追悼本の中で「原子力を肯定していて云々」と書いて死んだと聞いても何の感慨もないと言い切っていたことです。

他の人たちが軒並み、手塚氏への哀悼の念や故人への賛辞・称賛の雨霰の中で唯一異質の発言でした。

らしいと言えばらしいのですが…

投稿者 ひでのすけ : 2011年7月23日 22:54
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