日本アルプスの中に野麦峠と呼ぶ古い峠道がある。「野麦」という地名も人は野生の麦のことかと思うらしいが、実はそうではなくて峠一面を覆っている熊笹のことで、正しくは「みすず」という。
「綾香病気ひきとれ」という工場からの電報を受け取ったたかしげは病室に入ったとたん、はっとして立ちすくんだ。美人ともてはやされ一度に7人から求婚されたこともある姉の面影はなく、やつれはてて目はうつろ能面のように虚無を張り付かせた顔でベッドに横たわっていた。どうしてこんな体で半月前まで働けたのか信じられないとだった。
医者ではない事務方と名乗る人間がたかしげに十円札を一枚握らせると、早くここを連れ出してくれという。工場から死人を出させないためだ。たかしげは自分の中の怒りが音を立てて湧き上がってくることを感じて拳を強く握った。その手をミイラのような綾香の手がそっと触れた。
「たかしげ、ええんよ」
そういって綾香はよろよろと時間をかけて起き上がりお辞儀をして合掌した。広島へ帰って静かに死にたがっているとたかしげは察した。綾香という女はそういう女だった。
準備してきたネコダに板と座布団で座席を作り姉を後ろ向きに座らせて落ちないように体を結わえてしょいあげた。姉の軽さに涙が滲んだ。作業中で仲間の見送りもなく、ろくに掃除されていない裏門からひっそりと出た。たかしげは声をあげて泣き叫び、工場をめちゃめちゃにしてやりたい気持ちをじっとこらえて下だけを向いて歩いた。綾香は合掌して工場に向かって「ありがとうございますありがとうございます」と呟いていた。
そのとき、「おお、帰るのか!元気になってまたこいよ、気をつけてな!」とあとを追ってきた門衛のじいさんが泣いて見送ってくれた。
「おじさん、お世話になりました。」
「元気になってまたこいよ、心をしっかりもってナ」
たかしげは救われた思いで何度も何度も振り返った。門衛は見えなくなるまで合掌していた。そして綾香もまた見えなくなるまで合掌していた。この工場に来て唯一の人間らしい暖かいふるまいだった。
いったん松沢病院に綾香を入院させるつもりだったが広島へ帰るという綾香の気持ちは少しも変わらず、たかしげは綾香を背負って歩き続けた。
野麦街道進む間、綾香はなにも食べず、峠にかかって苦しくなると「ありがとうございますありがとうございます」と合掌して呟いていた。峠の茶屋に休んでフルーツ盛り合わせを買ってやったが綾香は口もつけず、
「あー、広島が見える、広島が見えるよ」と喜んでいたと思ったら、間もなく持っていたオレンジの刺さったピックを落として、綾香の体力は力なくそこにくずれた。
ちょうどそのころ東京では帝国ホテルに名士を招いて「生糸輸出世界一大祝賀会」が盛大に催され絹の靴下を着飾ったドレスの下に身につけて女性達が華やかな舞踏会を楽しんでいた。