baritonesax1010

 もうアーバンギャルドのことだけ書くアーバンギャルドのオタ日記にするぞ!と決意も新たにしたところに秋元才加ことチョウコクについて話したくなったので、同じアだし……カタカナで考えると「ア」と「エ」で違うな……、英語で考えると「U」と「A」で、どうにもつながらないな……。
 とにかく私はAKBではチョウコク推し、アイドリングでは後藤郁推し、好きなK-POPはソニンです!と自己紹介していくことを決めたくらいにチョウコクが大好きだ!君が大好きだ!

 まず、AKB48のオールナイトニッポン冒頭での独白謝罪が、総括を連想させて笑ってしまった。そして放送中チームKの面々がラジオ局までやってきて、最終的には高橋みなみ(騎乗位)が秋元才加を励ましにやってきてしまった。秋元才加に他メンバーやリスナーが頑張れとかやめないでとか今回は反省してとかミスは誰にでもあるからそれを生かしてとか言っている。ここで高橋みなみが「才加が真のAKB48になれるように私たちは才加にしっかりと総括して自己批判してもらわないといけない、私たちも才加を本当のAKB48にするために殴るべきだ。総括する意思があるのなら防御なんてしない、すぐ気絶して目覚めたときにはAKB48になっている!さぁ殴れ!」って言いだしてもおかしくはない空気だった。そしてそれを言い出したらこの子たちは本当に秋元才加を殴り出したかもしれないし、秋元才加自身が自分のことを殴ったかもしれない。
 秋元才加はAKB48という思想を実現するためのチームKというセクトに所属している。そう考えると笑いが止まらなくなるから不思議だ。

 だからさ、AKBの次の曲のPVはメンバーがあさま山荘で総括するっていうコンセプトにすればいいと思うの。途中で山のなかでうろうろ彷徨ったり射撃練習したり総括したり活発な論争を繰り広げたり総括したり総括したり総括したり。最後は銃撃戦になって鉄球があさま山荘を破壊してそこから銃を片手に飛び出すAKBのメンバーが見たものはサイリウム輝く客席だった(この辺は「田園に死す」風)っていうPV。やばい、このシングル売れそう!ジャケはもちろんゲバ棒とヘルメットでね!団塊が複数枚買いしてミリオン越えそう!こんなPVの脚本書く私、大金持ちになっちゃうわ!自分の溢れる才能が恐い!


 私としましてはこの第一報を聞いたとき、twitterだったんですけど真偽はともかく「推せる!」と思い、これが真実であって欲しいと願いました。そうかチョウコクはこじらせにこじらせたファザコンだったのか!もう父親よりも年齢が上の人間でないと恋することもできないんだ!歪みすぎている!推せる!

 きっとハーフであることで多少なりともいじめをうけたその憎しみが母親の国籍と母親に向かったんだろう……その逆説的な父親への尊敬と盲目的な愛情からチョウコクはファザコンになっていき、最初はただ単に年上好きだったのがアイドルとなって自分より年齢が上の人間がバカみたいにアイドルに熱狂しているのを目の当たりにしてストライクゾーンの年齢がどんどん上昇していった結果が広井王子になったんだ!そうに違いない!そんな悲しくも美しい屈折を私が推さずに誰が推す!

 とまで考えた。枕営業とかまじ想像できなかったっす。どうみてもファザコンです、本当にありがとうございました。でした。
 そして私はAKBのことをよくわかっていないので、チョウコクくらいのポジションだとすぐに切られちゃうんじゃないかって思ったんですよ。下もいっぱいいるし、SKEもいるしNMBもできたし。「メディア組でも恋愛禁止令に触発したものは切る」ということを知らしめるためのスケープゴートとしてちょうどいい存在になってしまったし、気付いたらサイトから写真消えてるとかそういう抹殺をされてしまうかと思った。でも事務所は否定して謝罪のシナリオを書いたりして、そうやって秋元才加に対して尽力をつくしたかたちになって本当によかったなって思いました。



少女の証明



アーバンギャルドの夢

 アーバンギャルドが好きです。
 いよいよサードアルバム「少女の証明」が発売されます。とてもよいアルバムなので是非みなさんに聴いてもらいたいと思います。
 3年くらい前は「ポリリズム」を聴いてもらいたくて「席替えをしたら隣が大本彩乃になった。」を書いたなぁとそういうことを思い出しました。そういうノリで興味を持ってもらうためにHTMLにしたためていこうと思います。目標は「アーバンギャルド サブカル」で検索トップに踊り出るくらいで。

 アーバンギャルドの面白いところは商業サブカルなのに消費者と提供者が断絶してるってところだと思っています。アーバンギャルドのフロント、松永天馬と浜崎容子は神経症とゴスではない、どちらかというと屈折したオタク少年とハイソなオシャレ番町です。私の知っているオタク少年とハイソなオシャレ番長の組み合わせは都会を賛美する曲をリリースして一つの系統を作って今や古典になりつつあります。でもアーバンギャルドの消費者は、神経症とゴスのコンビが対象としていた層の予備軍みたいな、つまり子供なんです。神経症とゴスのコンビは同世代から神様女神(ミューズって読んでね)様的な尊敬を受けることに対してすごく計画的にプロモーションしていて実際崇拝されるような形になったのですが、アーバンギャルドは崇拝も何も世代がいっこ下なんです。ステージ上でコーラで避妊といっても首をかしげる子が半分くらい。(昭和63年と昭和64年と平成元年が混在する学年である私の妹はコーラで避妊の意味がわからなかった。)
 例えるなら児童文学みたいに、大人が子供のために子供の気持ちになって文学作るが一番しっくりくるかな。
 私は高校を卒業してからあんまり自分が成長したと感じられないのですが、私が思っている以上に私は大人になっているようで、けっこう子供の考えることがわからなくなっているみたいです。それを自分と同世代のアーバンギャルドが行っているのはすごいと思うし、面白いと思います。

 下手したらメンヘル的なものを嘲笑してるともとられかねないのに、そうならずに支持されているのはひとえに作詞家松永天馬のまじめさだと思います。あくまでも消費者の層を現代の象徴として嘲笑せずに受け止めて詞にしてるからです。それはもうプリントクラブのPVの前衛都市絵の手紙をコマ送りして見ればわかると思います。コマ送りなんてTHE END OF EVANGELION以来だ!
 けして商業としてメンヘルがおいしいと思ったわけではなく、(そして同様に商業としてサブカルがおいしいと思っているわけではなく)自分が一番語れる話がこれだということ。自分を商業として提供しているけれども、消費者と同一ではない。だからこそ見られるのかな。そしてそういうことも全て織り込み済みで松永天馬は動いていると私は思ってます。

 逆に、私が一番恐ろしいと思っているのは浜崎容子ことよこたんでして、よこたんがソロアルバムを発表したときに少なくない人数がよこたん脱退!と思った。と、いうのが私個人非常に面白かった。
 鮎川じゅん以前を知るアーバン古参ならばボーカルの移り変わりを目の当たりにしているのですわ、脱退か!となるでしょうけど、私のような少女都市計画新参でもよこたんがソロ活動に専念して脱退するんじゃないかって感じさせるよこたんの気まぐれさ。よこたんが自分の活動のためなら松永天馬はじめアーバンギャルドをすっぱりと切ってしまうと思わせる非情さ。共有する無意識に誤差がなくって面白い。
 でもねでもね、じゃあステージにいる少女浜崎容子って完全な少女の実体なの?渋谷の109Aから飛び降りて月の裏側に辿り着いたエイズ検査の結果待ちしてる前髪ぱっつんの傷だらけの心の整形手術したいリセヱンヌっていうのを全てよこたんが背負ってるって、それ少女が背負いきれるの?大人の女性でないとできなくない?
 決して私はよこたんを暴きたいわけではなくって、そこによこたんの本気と底力となによりも女性を感じさせるんです。
 造形的に美しい顔とは言えないオシャレ番長がオタク少年の楽曲と美的センスでポップアイコンになり語り継がれる存在になった90年代、神経症の文章で可愛いゴスが唯一のミューズになって、みんなが神経症のミューズになりたいと思わせた00年代。10年代のよこたんは渋谷の109Aから(以下略)を二宮金次郎のように全て自分で担いでいるその姿が後世にネ申と映っている。女性が女性性を女性自身の手で自立させた。神を生まなくても処女が神になった。
 思っているのですが、女性が女性としての仕事の最高峰「皇后」を自分が出来るかって考えるんです。できない、絶対できない。女性であることを続けていられない。じゃあ自分は男なのかっていうと、ただの女ですらないものなわけで。女性を極める過程にあるものに近いのがアーバンギャルドのよこたんではないかなって思います。フェミニストが怒り出しそうだけど、女性が女性を捨てる仕事を認めるように、女性を背負うという仕事も認めてもいいと思う。少女の段階で少女を背負うの脱落した人が大多数は、成長して大人になってもよこたんのように少女を背負うことはできない。少女の証明それはつまりよこたん。

 そんなよこたんが大活躍(だと私は思っている)サードアルバム「少女の証明」は10月8日発売です!みんな買ってね! 

  それから……
 私はアイオタなので、アーバンギャルドにも完結してほしい。完結せずにほっぽり出した状態で消えていったアイドルがどれだけいるか。たとえそのアイドルを好きでもなんでもなくっても切ないものですよ。ソニンは完結せずに舞台へ行ってしまいました。Perfumeは武道館で完結しました。toutouは完結しました。完結した後の世界がどうなろうとも完結した瞬間があれば私はそれを抱えていられるので大丈夫なのです。
 私にとってのアーバンの完結は、二段に組まれたステージの向こう側に倒れこむという演出が行われること。まぁ端的にいうとダムタイプのS/Nみたいな舞台装置で古橋悌二のようにステージ上で死んでほしい。それが見ることができれば私にとってアーバンギャルドは完結したと思える。それまでアーバンをおっていきたいです。






 ここから先は最近のアーバンギャルドに関係して私の思ったことなのですが、私は批評というものがよくわからなかった。私が物心ついたころ(99年の15歳くらい)には論壇なんてないし、評論家っていうのもテレビで怒鳴ったり寝ていたりするものというくらいしか見本がいないから批評することに実感がない。学校でも感想すらも習わなかったし。夫が彼氏のころも、音楽評論っていうものがどういうものかわからないし、彼氏の批評が良いのか悪いのかよくわからないし、つか批評は良い悪いっていうことなのか理解できる/できないなのかわからないし。
 あと、「やってもいないのに批評するのは間違ってる」という言葉に対して反論できない。つまり音楽作る人でないと音楽を批評できないし、絵を描く人でないと絵を批評できないし、漫画を描く人でないと漫画を批評できないし、ということになったら何も出来ない人は何も言う資格がないということで、そういう資格制度の上で批評がなりたつのなら批評家なんていなくてそれぞれの漫画家とか画家とか音楽家とかそういうのであって昔いたとされる批評家っていうのはなんだったの?

 でわかったんですよ。批評っていうのはその瞬間だということに。作品と自分のその瞬間の出会いだっていうこと。Perfumeの「VOICE」の音の少なさはつまらねぇの域のものだわ。でも次のシングルはどうなるかはわからないし、そこをどうのこうの言うわけではない。私が最初に聴いたその「VOICE」はつまらねぇなんです。遠い未来Perfumeを振り返って「VOICE」も大変の一部になって階梯の一段になって遠い未来のPerfumeはその一段のおかげで面白いPerfumeだとしてもその一段はつまらない一段であり続ける。(私が変わらなければ)あのつまんねぇからよくここまで持ち直したなって評価するかもしれないけれど、「VOICE」そのものはつまらねぇであり続ける。でもPerfumeという存在そのものは好きだし、できることなら面白くあってほしい。出会いを反芻し続けるっていうのが批評なんだ。そして好きだという気持ちはまた別物、嫌いという気持ちも。