baritonesax0809

 私たちは私たちの身体の客観性を持つことが可能なのだろうか。主観を閉じ込めた身体を客観視することができるのだろうか。主観の存在である身体を客観の意見と置き換えたとき、これは身体の客観性を保持していることになるのだろうか。「私は私のことをブスだと思う。」ではこの私の客観性はなにを根拠にして発露されているのだろう。私が見つけた客観のある場所からの抽出した意見というのは、その抽出に私の主観はないのだろうか。「私は私のことを美人だと思う」という客観性の存在を私は主観的に放棄したということなのだろうか。私という主観は身体から抜け出し客観までも主観にしている。俯瞰の視点で自分を見つめる、その空までも自分であるのだ。
 私の客観はどこにも存在せずただ身体を抜け出した主観が存在するのみである。どこまでいっても自分の主観のなかで客観的なのは他者の存在そのものである。他者の他者自身の身体の客観性。あなたの身体の客観性は私が共有することができる客観性なのである。





 と、上記のことをわかり易く言うとのっちはのっちの全裸に対してどう思うのかということである。テレビの収録から疲れて帰ってきてとりあえずシャワーだけでもと脱衣所で服を脱いで洗面台の鏡に映るのっちの全裸をのっちはどう見ているのだろうか。2年前までは数十人が気になっていたのっちの全裸は今や何万人もの人間の興味の対象となり、その一部であるムネチラやパンチラが週刊誌を踊る。のっちが毎日見ているであろう全裸の価値はのっちのあずかり知らぬところであがり続けている。多少の体重の変動以外はなにも変化がないであろうのっちの全裸をのっちは今どのような視点で見つめているのだろうか。
 のっちの全裸を見ることができるのは両親と親戚、兄弟、そして恋人だけであろう。彼ら彼女らはのっちとの関係上の視点からのっちの全裸を見るだろう。そしてのっちの全裸が見たい何万という人間はそれぞれの欲望の視点から見るだろう。後者である私たちは永久にのっちの全裸を見ることはできないが、前者の気持ちはなんとなく想像がつくだろう。だがのっち自身はそののっちの全裸を持つのっちはどのようにしてのっちの全裸を見ているのだろうか。のっちののっちの全裸に対する想いはどのようなものなのだろうか。  私がこの気持ちがわかるときは、私が有名になり週刊誌に私のパンチラだとか小学校時代の水着写真とか掲載されたときになるだろう。私が毎日見ている私の全裸が私のあずかり知らぬところで付加価値がついていく。その客観性と主観性の差異が日ごとに大きくなっていくときに私はのっちの全裸に近づくのではないかと思う。

 しかしこの問題には結論が実はでていて、のっちはのっちの全裸に対して「なにも特に考えていない」なのだ。のっちの全裸の価値というものがのっち自身に及ぼす影響は多少なりともあるだろう。がしかし生まれたときから今日まで毎日見ているのっちの全裸に対してのっちは「普段」以上の感想を持ちようがないのだ。のっちの全裸はのっちにとって「日常」であるから。私たちの全裸が私たちの普段以上のものでないように。しかし私の考えるこの問いは私を生涯満足させるに値するものなのだ。それが私の日常になるのである。

書き方次第でユリイカに掲載されるか病院送りになるか。両極端なのがアートっぽいですね。私は夢見る。私の 義務 が消えることを。