baritonesax0807

 私のコピー論。

 Cutie Paiの新曲(?)「RECORDED TOWER」はサビがなんていうかcapsule。でもこれが地下の小さなライブハウスで地下のアイドルを見にくるようなオタ相手に歌うぶんには全然問題ないと思っています。しかしこれがCDとして発売されてしまうとアウトだし、いけないことだと思うんです。私にとってパクリの違法性のポイントってそれをメジャー商売にしているかいないかなんです。なのでジャンルは違うけれどPerfumeの「彼氏募集中」はどこをどう聞いてジッタリン・ジンの「プレゼント」なので、ライブDVDに入っているとか、武道館で披露されるとかなっちゃうと、やばいよ〜!だから「OMAJINAI☆ペロリ」略して「OMA☆ペロ」にしておこうよ!と思いながら「ぼしゅうちゅう」でニギニギしてるんですけどね。

 そう考えると私にとって「地下アイドル」っていうのはメジャーの流通に乗っていないということになるのかな?メジャーでないので地下で好き勝手にやっていい、利益のメインは物販でしょうもないTシャツにすごい値段をつけて1人5枚くらい買わせるみたいな。だから地下アイドルがどんなにヒット曲をパクってもそれは地下で行われている素人に毛が生えたようなものなのでメジャーのものは相手にもしないということ。逆に本気でやりたいのならば例え1年でもメジャーの流通に乗って、1枚のCDを作るのに多くに人間の手が加えられるような、手というのは制約という意味でもあるんだけどそういうことを経験しプレッシャーにうちかって流通させてほしい。

 逆に考えるとメジャーにのらなくても好き勝手やって楽しければいいなら「地下アイドル」としてガンガン攻めていってほしいなって思います。なんとなくなんですが、Aira Mitsukiはこのまま地下で大活躍して逆にSaori@destinyが大ヒットしてオリジナル曲がんがん歌うようなことになると面白いなって思っています。  





 志村貴子の「青い花」3巻を読みながら、「やっぱエス物の正当な後継者は『青い花』だわ〜」と呟いていたら、やっぱり本家である「丘の家のミッキー」が読みたくなってきた。というわけで図書館から借りてきて読んでいたら、エヴァンゲリオンの深夜再放送を見る前の自分(中一冬以前)が甦ってきました。そこから氷室冴子の「金の大地 銀の海」を読んで、そういえばこれ完結してないよね?って思い出したところで氷室冴子の訃報がとびこんできました。本当にびっくりしました。私は氷室冴子著のあとがきで「生理が来るたびに自分の女としての成長への嫌悪」というものがあると知り、そうかー私は今、そう思いながら思春期で反抗期であるべきなんだね。でもそういうのは理解してしまったらダサいのでやーらない。という気持ち悪い中学生でした。生理休暇というものが存在することも氷室冴子で知りました。ご冥福をお祈り申し上げます。「なんて素敵にジャパネスク」も読み返したくなってきた。

 私は「マリア様がみてる」よりも「丘の家のミッキー」のほうが好きだ。「マリみて」を最初見たときの感想は、「コバルト文庫もここまで落ちぶれたものよのぉ……」とせつなくなった。なぜならば、クリスチャン系女子校の閉鎖された世界の必要性を「マリみて」に感じられなかったのだ。おそらく私たち読者は「マリみて」のロサギガンティアアンブートゥンプティスール、ぷぷ、そらで言えちゃった★っていうありえない感じを現実と虚構の境目で楽しむんだけどそれは普通の文学(この場合は紙に記述された文字娯楽の総称としての意味)としての普通の楽しみ方で、面白くもなんともないよなって。  それにひきかえ「丘の家のミッキー」は、華雅学園(主人公たちの通うお嬢様学校)と森戸南(主人公が理不尽な理由で転校させられたて程度の低い不良女子校)という対比をどちらも「これはねーよ」と楽しみつつ、さらに麗美様(マリみての祥子様のようなもの)と朱海さんというどちらも現実にありえねーっていう憧れの男女の対比を楽しむっていう構造が10巻分の厚みを持たせていると私は思うのです。

 もちろんそうした対比は作者久美沙織はすべて承知の上で書いているわけで、ここを読んで、ああ「丘の家のミッキー」を読んでよかったなぁと思いました。そして久美沙織は今も昔も変わらないことが嬉しいという気持ちでいっぱいです。氷室冴子も久美沙織もそして新井素子もなんかあとがきが独特で一目でこの人!ってわかるんですよね。自己主張を超えた、一文字一文字ににじみ出る自我が今の少女小説家にはたりないんだと思います。

 そんな少女時代(中学一年春から冬)をしっかりとコバルト黄金期の洗礼で迎えたものの、その後のエヴァ再放送でしっかりとダメになり今にいたるんですけどね。