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 「BSアニメ夜話」を見たら議題が「クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲」だった。唐沢俊一とか岡田斗司夫が楽しそうに話してるんだよね。ほんとこいつら幸せだと思う。この幸せな気持ちに比べたら出演料なんて些細なことだよね。私、実家に帰省したとき退屈だからビデオテープをあさっていると「Serial Experiments Lain」が奇蹟的に残っていたの!感動して見ちゃったもの。途中にあるCMを見るとレイ=チャールズがまだ生きていて愛知厚生年金会館でコンサートをやるっていうくらい昔。
 でも今「lain」見てる奴なんていないから誰ともこの気持ちを共有できないんだよね。これこそ孤独のシグナルなのかしら?って孤独のシグナルっていう曲が「lain」の最終回で流れたの……って説明していてむなしくなってきた。

 しゃべり場で中心になって喋っているやつに対しても、本当にお前の口はそんな動きをしてお前の声帯はそんな動きをしていていいのかって思った。いくら人生八十年だっていわれても、もっと自分が楽しくてしょうがないことを優先的に口にしたほうが楽しいじゃん。楽しいことしかしない快楽主義なのかよって、やらなきゃいけないことがあることぐらいわかってるよ。楽しそうな、幸せそうな人たちが羨ましいってことだよ!みんな(主に夫ムネカタ)「チャングム」みようよ、お母さんも「スウとのんのん」見てないでさぁ。

 僻み根性まるだしなのはもちろんのこと、私は議論(ディスカッション)と呼ばれるものが本当にそれで良いのかわからないのですよ。中身が充実するにはまず形式がある程度整う必要があると思っているけれど、例えば「TVタックル」ってのはいいのか?「朝まで生テレビ」ってのの方がいいの?やっぱり「国会中継」?私にはどれも区別がつかないんです。話したいという気持ちの温度差が場を崩しているのかそもそも議論に向き不向きの人がいるのか、わからないの。さらにそこに利権なんか絡んじゃってくるとそれって議論として成立してないよね?万博利権が欲しくて欲しくてしょうがないからがんばって誘致しようとしている人に、無償の自己満足で自然保護を訴えて反対する人は勝てないよ。結局議論と書いてディスコミュニケーションと読むような関係が民主主義と同義語になってしまっているのかしらね。
 2chやらでは文字というツール上の理由からかろうじて「議論」の体裁をとることができているような気がするんだけど、これが未来インターネットになって文字ではなく声とか思念とかなんかでやりとりするようになったら私たちはいよいよ議論を失うんじゃないか。

 それを「わかりあえないってことをわかりあうのさ」と表現したのはflippers guitar。そして現代における徹底したディスコミュニケーションドラマ「渡る世間は鬼ばかり」第七シーズン:え、赤木春恵が降板なの?がついに終わりました。今までのはこれが言いたいがための前ふりだったんだよ。
 いやあ、こいつら超ディスコミュニケーション!いや、ひょっとしたら一つのステージ上にいるんだけどそれぞれがめいめいの芝居をしてるっていう絶対演劇的なものなのかもしれない。
 仮に誰かが「嫁姑ってのはこういうもんだよ」って言ったら、それは嫁姑ではなく脊椎動物としてあるまじき行動ではないかと思うほど。わかりあえないってことすらわかりあえないという非常事態。一年見てきたけど、他にもっとやるべきことがあったんじゃないかって陰鬱な気持ちになります。

 ドラマの最終回のくせして、収束ではなく拡散の方向に向かうのは斬新かもしれないと自分を奮い立たせたもののダルダルで見ていられたもんじゃありませんでした。さようなら私の渡鬼……。





 ロクロク星人のマトリョーシカだよー!

 こういうことして心のそこから喜んでいたらだめなのかなぁ。
 申し訳ないけれどもものすごく楽しかった。そりゃロシア人も歴代大統領でマトリョーシカ作っちゃうよね。そういう遊び心のほうが楽しいもん。あとはニスを塗ってしまえば完成です。ニス塗らないとロクロク星人のかけら(主に白い部分の絵の具)がぽろぽろこぼれて、それはそれは幻想的な雰囲気になってしまうのよ。

 まぁロクロク星人は簡単だから、完成度と比例して達成感も非常に高い。レベルを上げていくことに快感を覚えると最終的にはガンダムとかえらいことになってしまうので気をつけなければ。これに似たような作用として免許の取得があげられてしまう。免許を撮った瞬間には、次はけん引の免許取っちゃおうかなとか思うからやばい。あんなにDQNまみれで、苦痛で苦痛でしょうがなかったのにさっぱり忘れてしまうこの記憶の隠蔽作用!気をつけなければ痛い目みちゃう。ほんと痛い目みちゃう!
 こうも簡単にだまされる部分もあれば、記憶の強情な一面も最近見たばかりです。つい先日高校時代に所属していた吹奏楽部の定期演奏会に行ったのですが、これっぽっちも懐かしくない。どの部分に感情移入していいのか図りかねるほど。一番印象にあったのは、自分たちがコンクール自由曲で演奏した「ラスベガスを喰いつくすゴジラ」をノーカットバージョンで演奏している姿。懐かしさとともにやっぱこれおかしいよと冷静になっているこのミックスは気持ちよくって恥ずかしい。

 たぶん、この子達が私たちとおんなじことしてくれたら私は懐かしくて死にそうに(具体的には終電を逃したり、飲みすぎて電車代足りなくなったりなどなど)なるんだよね。与えられた定期演奏会という枠組みだけでは感動できなくなった私たちはもうその枠組みは必要ないのだなぁ。
 むしろ今回はmixiのオフ会のようだったよ。

 そーいえば私が卒業のころ、というと2001年度あたりなんですがオンライン上で「同窓会を手配してくれるサービス」ってのがあった。メーリングリストとフォトフォルダ機能の公開カレンダー機能がまざったものだったんだけど、それはソーシャルネットワークにとってかわってしまったなあ。ソーシャルネットワークさえあればある程度のML機能とかカレンダー機能も不要になってしまうもんね。この駆逐感は人事ながら恐ろしいと思います。そして私の知らないどこかで何かがライブドアに駆逐されているのかなぁ?私にはほんと、想像もつきませんけど。





藤岡弘探検シリーズ!ミャンマー奥地3000キロ伝説の野人ナトゥを追え

「逃げろーーーー」 巨大な石が転がってきたよ!
間一髪でよけたよ! 細い木にぶつかってはねたよ!







バリトンサックス 今日の映画 「食人族」
 この映画は1979年にイタリアで作られて、1981年に日本で公開されたようです。そして私が生まれたのが1983年。なので「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」が唐突に出てきたわけではなく、系譜に基づいて現れた作品であるってことを知った。「食人族」は食人族探しにジャングルに行って行方不明になったカメラマンら4人を探しに行くところから映画が始まるので、フィクションであることが大前提で食人族を本物のように作っている。のに対して「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」は(見たことないのでオンライン上にあるあらすじが言うには)この映像そのものが発見されたということで、上映そのものを本当なんだよって騙している。この差が後世にどう影響するかは言わずもがなという感じ。こうしていろいろ検索して気付いたんだけどドキュメンタリータッチのホラーっていうのが多いってこと。ドキュメンタリーを選択した時点でホラーを選ばなきゃいけない法律でもあるのかしら?そう考えるとドキュメンタリーでありながらホラーでもアドベンチャーでもなんでもないけど面白くってしょうがない「藤岡弘、探検シリーズ!」は今日19日19時から放送だよ!みんな見てね。(ヤフーテレビ欄に『藤岡弘』って書いてあったんだけど、読点はもうなくなってしまったの?)





 っていう長い前ふりから日本が誇る最高のドキュメント「大反響シリーズ第3弾 私、ママになりました 完全密着990日!3男4女8人激闘大家族! 16歳長女・感動の出産スペシャル」の感想を書いちゃうよ!

 そもそもドキュメントにヤラセがあるかないかって話が先行しがちだけど、「大家族」に「母失踪」を組み合わせるかなぁ?コント番組が「(ここにはひょうきん族とか全員集合!とかいろんなそれぞれの固有名詞が入る)」の呪縛を逃れられないように、大家族に対して「モノより思い出!」っていうヒューマン路線っていう刷り込みがあるでしょ?それを「母失踪」だよ?離婚という過程をふまずに失踪だよ?着地点を「お母さんがいなくても大家族で乗り切るもん、僕たち寂しくないよ」にしたとしてもそんな過程思いつかない!さらに、そこに、母親代わりの長女の出産、駄目押しの16歳だもん。なんかね、見てる途中に入る「渡る世間は鬼ばかり」のCMのぬるいことぬるいこと!ごめんなさい、私現実におなかいっぱいなんです。
 そういった大味な部分がまさに強烈な味なので、ささいなヤラセなんか気にならない。例えば両親の離婚が成立してから子供達が荒れ出したっていうのも時間軸をいじって演出しているのはわかるのですが、それ以前に母親代わりしている長女(16)が大変なのには変わりがなく、荒れようが仲直りしようが長女(16)の働きぶりには専業主婦の私が鬱になるほどです。
 もし仮に「じゃー、今からお父さんのお疲れ様会やろうか。みんなお父さんに色紙書いて」とスタッフが指示したとしても一家族が父親に色紙いっぱいの寄せ書きが作れる事態にヤバさを感じるし、「じゃー、ここで泣いてください」と指示が出ていたとしてもごはんを食べる前に子供達七人(16歳から5歳まで)とお父さん(52)が陰性のオーラを出しすぎてしまっているし、出来事ではなく存在そのものを見ているからこそ惹き付けられていると思います。

 手前味噌ですが感想リンク集を見てわかるとおり、産まれた赤ちゃんの父親は明確に明かされないままこの二時間は終わってしまいます。なのでいろんな邪推がとびかうのですが、そういうことを考えていると、電話機の1と1と0のボタンを押したくなるので私はあまり考えたくないのです。法治国家の形骸化ももちろんだけど、やはりこの家はDQNなのだなぁという悲しさが私を襲うからです。
 個人的に私がショッキングだったこととして、まず子供達に長女の妊娠が正式に交付されたのは産まれる一ヶ月前ってこと。仮にこれが嘘だったとしても6ヶ月まで長女が内緒にしていた妊娠が父親はともかく弟妹たちに気付かれないはずがないと思うので、その奇怪さにどう対処していたのかっていうのももちろんのこと「赤ちゃんがうまれるから」って言われてもセックスと生殖の因果関係を知るはずもない5歳の四女がなにをどう思うのかってこと。この子失踪した母親と再会したときも鋭い目で母親を見てたんだよね。この子は病むと確信しました。四女が「元気な妹を産んでね」と言ったとき、私はその確信を一つ増やしたのです。
 そもそもお父さんは昼夜働いているため家には寝るために帰るようなもの。お母さんはいないのでこの家には未成年しかいないんです。そんな中で赤ちゃんを育てているんですよ!赤ちゃんがお風呂に入ったり、昼寝したりしてる周りには子供しかいないんです。大人はいないけど、子供はいっぱいいるこの状況を異常といわないでなんといえばいいのか私にはわかりません。

 前回まではただただこの一家の幸せ、主に長女の幸せを願っていただけなのですが今は思いが複雑すぎてうまくしめることができません。mixiにコミュニティを作ったんでよろしかったら参加してください。私が子供を産んでいたら長女が出産しなくてもよかったなら産みますからゆるしてくださいと誰かに懺悔したくなったり、自分の存在について考えたり、幸福論と名の付くものなら椎名林檎でも読んだり聞いたりしたくなる気持ちとか、なんかもう。ほんと、ごめんなさい。ああ、がんばろ。





残念だけれども、わたしたちは今日も生きている。

 今日、昼下がりのワイドショーを見ていると東大合格発表のニュースが流れたので、えなりくんはどうだったのだろうかと思った。えなりくんが東大を受験したのは「渡る世間は鬼ばかり」中の話であって、現実は成城に通っているのだと気付いたのは少ししてから。てゆーか最初に思うことがおかしいのだ。悔しいけれども合格発表の場で「チーム渡鬼」が番組宣伝のために行ったら面白いのにと方向転換する。リアルじゃねぇとはまさにこのことだ。海賊が日本人を襲ったんだってって言われて、それを事件と受け止めずにONEPIECEのプロモーションだと思う人は少なくないだろう、とかね。
 リアルじゃねなぁ。っていうのは「真夜中の弥次さん喜多さん」の喜多さん(ジャンキーの方)の口癖。舞台で見たときにもあった「薬の幻覚で弥次さんと喜多さんの手がつながってしまった!」という描写が映画にもあるらしい。薬を服用しているのは喜多さんなので手がつながるという幻覚は喜多さんが見ているのだろうと思うのですが、観客からみると、弥次さんを演じている人と喜多さんを演じている人の手が筒状のものでつながれていると見えるので、なんで薬を服用していない弥次さんまでそんな幻覚に襲われる演技をするのだろうかと思うんです。そこに忘れがちな二人は恋人同士だってのがかかわってくるんじゃないかなって気付くの。愛し合っているからこそ二人はリアルじゃなくなっていくのだ。じゃあ私がリアルでなくなるのは私が世界を愛していて、世界も私を愛しているかもしれないってことなの?
 古館一郎の読み上げるニュースは「視聴率が上がるといいなぁ」しか込められていないから、どんなニュースでもどうでもよくなる気分が、私の周りがなんども読んだ小説みたいに、ポスターカラーを均一に塗る方法を用いて、私は世界を深く愛していて、世界もまた私を深く愛していると、世界はなにもないように感じると同時にきっと世界からみた私もなにもないように見えるのだろう。
 夢を見た。少し前の私の夢だった。あんなに怒ったり悲しんだりいろいろとしたのに、全部リアルじゃねぇ。って夢だからそうなんだけど。実際に在ったできごとなのにただ思い起こすということだけでこんなにリアルじゃなくなるなんて、それは元々リアルじゃなかったんじゃないかって気付く。気付いたら悲しくなった。心のつかえが取れたけれども一緒に恐怖とか憤りとかもなくなってしまった。そうした私は神様を愛するようになるかもしれないけれども、その神様ってのはライトノベルだったりただずんどこ言ってるだけの音楽だったりだからよけいに悲しくなるのだ。その悲しさもリアルでなくて、たとえて言うなら学芸会の大道具の木みたいな私は世界と愛し合い。ながら残念だけれども、わたしたちは今日も生きている。





03.07 イチゴ大福ってさぁ、すごい食べ物だよね。甘酸っぱいものと甘ねっちょりしたものを包んでしまうんだから。複数の食べ物を口の中でミックスすることを許された文化ならではの食べ物だよね。私はこの季節になるとイチゴ大福が食べたくて、「イチゴ大福」ののぼりがあるとフラフラとお店に入ってしまいます。
 が、しかし!イチゴ大福でもイチゴを大福の上に乗っけているだけで「イチゴ大福」と名乗る劣悪なイチゴ大福もまた存在してしまうのだ。それはイチゴ大福ではなく、大福にイチゴを乗っけてカスタマイズしているだけのただの大福じゃねぇか!じゃあ豆大福は豆のっければいいのか?ばかやろうめ、違うだろ。私はイチゴとあんこと皮を一度に口にほうばりたいんだ、それが「イチゴ大福」なんだよ。大福とイチゴが食べたかったら大福とイチゴ買ってきて一緒に食べるよ、お前らには頼まねぇよ。





 TRAUMA-girl, boy meets.

 私が毎週楽しみにしている木曜コンボの後編「宮廷女官 チャングムの誓い」のヒロインは自分の不注意のせいで両親が殺されてしまうところから話は始まります。で、大きくなったヒロインはどじっこと食いしん坊と仲良く宮廷で料理を作る仕事をしているのですが、たまに両親のことを聞かれてヒロインのトラウマががっばり開くのです。その不注意っていうのもヒロインの口の軽さなのでそのトラウマも決して口外しないのですが、なんとヒーローに話してしまうのですね!なんで話しちゃうのか、それこそ口がすべってるじゃんとしか表現できないのですがこの回でヒーローとヒロインは仲良くなるのでしょうがないのです。

 その回を見たときは、これが噂に聞く韓国のベタベタな演出なのかーと思っていたのです。がしかし、このトラウマヒロインがヒーローにトラウマを見せることで仲良くなるっていうのは、トラウマガール原理主義の最初の形式(もう経典という言葉をあてたほうがよいのかもしれない)でなかっただろうかと。その経典第一ページ目のトラウマガールはトラウマがありつつも根本の性格は明朗快活で、トラウマは不幸なアクシデントとしてキュートな笑顔と並列のオプションの一つではなかったのではないかということを思い出した。
 そしてこの「宮廷女官 チャングムの誓い」のヒロインも経典第一ページ目のトラウマガールとして、根本が明るくめげない性格であるのです。こんないい子にこんなひどい不幸があるだなんて……っていう同情はとても懐かしい感じです。懐かしい?

 いつから日本はトラウマガールが屈折してしまったのだろうか?やはり私はエヴァンゲリオン世代なので綾波以降と考えてしまいます。そもそも綾波ってトラウマガールってわけじゃないよね。エヴァンゲリオン初心者にはわからないかもしれないけど綾波はデリタでいう「コーラ」なのでコーラ―プラトンの場を読んでください。そして綾波という言葉が出てきたので、じゃあトラウマガールつったらアスカじゃね?って思った奴、おしい!
 私が推測するトラウマガールの最初はエヴァを見ていた綾波ファンの視点から見たアスカではないだろうか?綾波ファンにとってアスカは「確かにキャッチーだけど、ちょっときついかな?」っていう弱ったやつらで、アスカ崩壊の22話で「あー、アスカって実は屈折した奴で、あの明るさも無理してて本当は暗いやつなんだよね」っていう思考の流れがそのまま浸透してしまってその思考に萌えが付属して、どんどん屈折したトラウマガールが肥大していったのではないかな。
 この「本当は暗い奴」っていうのは言い換えれば「根本はトラウマ」っていうことで、トラウマがないと成立しないことになっている。それまでのトラウマガールのトラウマがオプションであったところから一歩踏み込んでトラウマそのものが自己となってしまった。そこから「本当は○○」「本当は△△」という暗示、たとえ本当の要素が全体の1%でもそれがすべてのようだと感じてしまうことはトラウマそのものを評価することにつながるのではないだろうか?

 現に今のトラウマガールの肥大、それゆえのマンネリはトラウマガールのトラウマ部分の入れ替えのみで成立しているフィギュアであって型部分が飾りになっている。この行き詰まりの突破はやはりトラウマガールのガールに重きを置くことに他ならないであろう。その足がかりとしての韓国ドラマであるのなら韓国ドラマの流通は日本にとって良く作用するのではないだろうか?ここでの懸念事項は韓国もトラウマガールの屈折化が進むのではないだろうかということで、すでにエヴァンゲリオンがある以上、この可能性は高い。
 解決策の一つとしてトラウマボーイの起用である。フェミなみなさまも納得する可愛いトラウマボーイがいれば屈折化の信仰も遅れるだろう。そういった基盤を整えるために世界は尾崎豊を流布させるといいと思うよ。そして最大の解決策は「トラウマの空虚化」である。それは、570kmをマラソンしたりドミノを6万個並べたりする無意味な試練に対する外傷である。誰であろう、それはソニンだ。トラウマガールを愛しながらそのトラウマは空虚というなんともアンビバレンスなこの気持ち。愛と憎しみの交錯というか、愛とおいてけぼりのトラウマガールだ! ソニン



無意味なトラウマ引き受けて、戦争反対を叫ぶ。







I am a TRAUMA-boy. 更新する直前に思い出した、今井紀明くんはトラウマボーイだよね!ナンバーガール(サンボマスターはちょっと……)聴いて悶々とするトラウマボーイでいてね。






 今は純愛とか言ってるけど、そのうちまた売春買春で盛り上がって宮台真司の稼ぎ場が現れるんだろうなぁ。
 個人的にオススメなのは「郷愁」ですよ!戦争によって一旦リセットされてしまったが60年を経てようやくその土壌が確固たるものになったと思います。
 月九で放送されている「不機嫌なジーン」を見ていると、(上戸彩主演のエースをねらえを思い出すとともに)高一の誕生日にもらった「利己的な遺伝子」の文庫版を思い出す。そんなときに古本屋さんでリチャード・ドーキンスの本が600円ほどであったりするとレジに持っていかない法は無い。この思い出し連鎖、そして消費がたまらなく気持ちいい。私が同じ本やらCDやらとにかくいろいろな娯楽を繰り返し繰り返し楽しむのは思い出し連鎖の快楽の奴隷であるのだろう。その快楽を上回るための新しい消費は単純に値段が大きいもになってしまうという、なんともお財布に優しくない作りなのだろうか?春限定のコフレ(このコフレってなんの略ですか?)が欲しくなるのも、死ぬまでに使い切れないほどのリップを持っているにもかかわらず資生堂のリップパレットが欲しいのもそのせいだと思う。
 でもまぁそれ以上に、タイムスリップグリコがこっちのほうでも発売されればいいのにと悶々としています。