baritonesax






 汝の敵を愛せ。




 懐かしい曲なんかを聴きながらまたもうたた寝をする。夕方になるとぐっと冷え込んで、カーテンから漏れる風がクーラーに等しい。懐かしい曲は懐かしかった時に私がよく聴いていたもので曲そのものに思い入れがない。この曲が素晴らしいなぁと思うのは私の思い出を引き出してくれるからの一点のみ。思い出すことはいいことばかり。私にだってやなことくらい、とてもやなことくらいあるけれどもさほど気にならない。過去は私に復讐しない、人は私に寛容できない。
 やなことでもいいことでないことも思い出す。雨にぬれたアスファルトの匂いとか冬の寒い朝の昇降口の張り詰めた空気とか新海誠のセカイ系に分類される叙事詩も懐かしい曲には入っていたりする。それよりなによりパソコンでCDと聴きながらアイスティーを飲む、しかも少し寒い部屋でっていうのが超感傷!
 こうした記憶が原因で私は大学にいけなかったとしてもあまり後悔はしない。むしろこういうことを利用して公開しないでお金が稼げたらいいなぁとかは思っているけれども。たとえば川島なお美のような秘書とかに。そう、私はこれっぽっちも無駄だと思っていない。記憶が大切すぎてたまに今がよくわからなくなることもあるけれど。記憶ばかりである自分、勉強ができない自分。さほど嫌いでないただの自分。

 私は少しだけ人と方向がずれはじめてきている。きっと最後にはまるっきり違うなにかになっているんだろう。人生なんてマニュアルも模範もないんだからずれなんて存在しないかもしれないけれど、現実には狂わされた人間っていうのはいるよ。それは歴史にだったり他人だったりそれこそ運命だったり。私はこれからゆっくりとその渦に飲まれていくのかもしれない。私が今少しずれはじめてきたことがどういうことになるかは、ボーリングのレーンの先にあるピンを倒してみないことにはまだ誰にもわからない。一ついえることはレーン上でもずれていても苦労すること楽なことは特にかわらないんだなぁ。
 昔、自分の未来に対して綿密な計画を立てたことがある。その計画によると私の18歳以降は白紙である。おそらく今私はさほど生きる意志を持ってないまま生きてしまっている19歳そして20歳となるんだろうなぁ。私が書く物語はいつも死ぬまで書き続けてとまらなくなるのは死以外に物語のエンドマークをおろせるものがないってことに気がついた。人生は物語とちがって終わりはあるけれど明確に知らされていない。人生と違って物語は最後まで考えなければ始まりも終わりもしない。違いをしっかりと理解したうえで私は自堕落に暮らす。






 淀んだ川は私の実家の近くにもあった。でもこの川の周りにあるのは監禁された人を収容するビルの群れだった。この川は水質が汚染されているよりも人間の淀みが川にまで伝染してしまったようだ。景気がよければ奇麗になるのではないかという川の意志を感じた。川沿いのビルは夕暮れどきの不確かな光源でもワンフロアががらんどうになっていることがわかった。
 しおれるように垂れ下がる柳を手で払いながら大きな声で歌いながら歩いた。「あなたのことがすきですきでしょうがないのーでもこっそりみているだけのおくびょうなーわたしーあなたのおとしてしまったきっぷーにーこっそりかいてゆうびんうけにいれるのーすきとかーねー」めちゃくちゃな歌が鳩を追い払って、川沿いは完全に日食中のゴーストタウンのようになってしまった。ビルの陰は黒く美しく製図された長方形を描いていた。早すぎたデパートのネオンもここには届いていない。

 

   猫がいた。
 川の防波堤ぎりぎりを歩いていた。この川はすぐそばに海があるわけではないからこれは防波堤ではないのか。だったらなに、コンクリートといえばいいの?ゆっくりと歩く猫は、物に名前があることも知らないヘレン=ケラーのようだった。私が隣を歩いていることも知らないまま。
 コンクリートの隙間で生きているねこじゃらしを切断し、まだ組織液滴る死体を猫に向かってふった。ちゅっちゅっと口を鳴らして自分が風の谷のナウシカになったように害がないことを目でアピールした。おそらく私は猫に指を噛まれたらふりはらって川に落とすだろうけれども。
 猫は川に落ちようとするように私との距離を可能なだけとって私をにらんだ。猫の右目は緑の空洞になっていた。左は確かに薄汚いキャッツアイのようなのに。どうしてこんな目になってしまったのか不思議で猫の顔を覗き込むけれど猫は口を開いたまま1カラットもない犬歯を見せつけている。ねこじゃらしをふっても甘い声をかけても猫は私にその瞳の秘密を教えてくれなかった。猫はしゃべれないのであたりまえだけども。

 

 がらんどうの右目は汚い緑のビー球が奥の方でちらちらと輝くようでもあったし、本当に緑の空洞のようだった。よく観察できなかったのは猫が度々痛そうに瞬きをするから。私が近づこうとすると確実に一定の距離を保つために動いてしまうから。
 ただ猫は左の眼球の瞳孔を開いて私のことを憎憎しい感情のみをぶつけてきた。恐怖と同情が天秤の同じ皿の上に乗るけれど、重さはどれくらいなのだろうか?地球よりも重くて人より軽いかもしれない。ねこはじゃーっと鳴いた。アクビのように。

 

 なんてそんなふうにしてしばらく猫とにらみ合っていたけれど私の予定は案外つまっているので視線の鎖を断ち切って再び歩き出した。再び歌おうとした。私の声帯は空気をか細く震わせて「生きること」という音を作った。まったく的外れな願望に夕陽が重なった。死ぬ前の夕陽はねちっこく周囲を照らす。臨死体験のように濁った光はビルの影も侵食して全てを殺そうとしていた。「生きること」もう一度私は呟いた。
 伝線に切り分けられた夕陽は私の目の前までに来ていた。ビルとビルの間の影ができない明るいレンガ敷きの遊歩道と不景気な影の境界ははっきりとしていた。普通の世界とどこにもない世界が共存している。私は後ろを振り返る。乱視近視の私に猫の姿は見えるはずもなかったけれども今も猫は威嚇してこっちを見ているだろう、ひとつの眼球だけで。猫はこれから太陽の死を浴びて月の誕生を憎むだろう。猫の右目を月の産声はどうやって照らすのだろう。

 

 残暑という呼び名が定着しないほど冷夏が続いた今月は、今からが夏本番のように太陽もまた最後の最期まであたりを照らし続けた。車はテールランプが眩しくフロントライトが素直に地面に轢かれている。片目のない猫と心が欠けている私はさほど変わりなく死にながら生きている。だからこそ生きることと呟いて私だけは美しい死体でないように、だからこそ歌を歌ってオアシスのように絶望的でも確実に存在したいのだ。
 遠くで鐘の鳴る音が聞こえる。途方に暮れて私は目をつぶった。心の中に猫がいた。

 

 生きること、それから悲しく憎まないこと。





お洒落な女の子、お洒落なカフェ、お洒落なチョコレート、お洒落なお水、お洒落な香水、お洒落な照明、お洒落なバー、お洒落なPV。
 ここまで来るとどうしても行き着く先は瞳ちゃんだぁと思うも、私たちはアンニュイを売りにしないで元気に大笑い。三拍子のカフェも背筋をピンと伸ばして友達の彼女とその彼氏の話。チョコレートは指でつまんで噛んで断面図を見るし、香水のテスターをふんだんに振りかけてお店はおしまい。雰囲気たっぷりの遊歩道でも高いヒールを音鳴らさずに「バラ色の人生を」ハミングで合唱します。

 傍若無人で素直でなつっこい、優しく丁寧に残酷。アンニュイなんて程遠い、私たちは楽しいことと幸せなことが大好き。そのためにたくさん笑ってすごすのだ。考えていることなんて明日のご飯のことくらい。ちょっとやそっとの非常識もそのうち覚えてくるだろうからって誤魔化して世の中の幸せを食べて生きるごくつぶしは今日もとっても元気です。そう、私たちの人生は「ラビアンローズ」。軽蔑も侮蔑も差別もしないで空っぽの頭で夢を見る。頭がつまるのは誰だって同じだからそれまでは空っぽのままでいいじゃない。プライドなんて気に入った服が誉められるだけでいいんだから、重いものしょわない私たちは完全無敵。





夏服の巻
 今年は冷夏なのでせっかく買ったホルターネックのワンピースの出番が無しっぽいです。その前にストラップの外せるブラがないことに気がつく方が遅かったので冷夏という言い訳ができてむしろほっとしてます。こうして着る機会がないなら最初から買わないでおいてもよかったかもと若干後ろめたくもなります。どうせいつもはTシャツ短パンで寝転んで腹かきながらみのもんた見てるからさ。

紅茶の巻
 エディアールのカフェに行ってアイスティーを注文しました。すっごく美味しくてわなわな震えておりました。よくつまみ出されなかったものです。夏なのでたぶんオレンジか柑橘類のフレーバーの茶葉で、甘い香りがたまりません。よいフレーバー具合なのか触れバーが持つ甘味も少なかったし。なんとなくたむろしている老人どもの無礼ぶりも、しょうがないと思えるくらいにおおらかになります。
 その後、コムサカフェにいったのですが雰囲気からもうギブアップ。非常識がまかり通る若者がこんなにだめだと痛感したのはこれが最初?さっきまでは常に悪意の対象である醜い老人に対してすら寛容の心を持って接したと言うのに。でも椅子に座りたかったからしょうがなく店に入って注文します。紅茶なんてたぶん絶対ここでは飲まない、というわけでハーブティーを。もう場が場だけにまずく感じます。ハーブティーって言ってミントしかないっていうのも変な話だよなぁ。一杯も飲めずに本を読みながら騙し騙し飲みます。本当に自分を騙しています。でも残せない、だって貧乏人だもの。
 家に帰って、トワイニングでお気に入りのプリンスオブウェールズをホットで飲みます。匂いをくんくんかいでいると紅茶が温くなってくるくらいこの匂いが大好き。下手糞な私がいれてもいい匂い。くんかくんか。
椅子の巻
 うわわわわ、なんと可愛い椅子なんだ。またわなわな震えて座るんですけど、もうこれは私にフィット!としか言いようがないすわり心地。君に決めたと言いたいところだけどもちょうどいい机がないのでとりあえず保留。家具探しって本気になると疲れるんで適当にすると自責の念が強くなってしかたがないです。でも小心者だから適当なものは適当にあつかっても問題なくて、大切なものはいざという時でないと使えないのでほこりをかぶっている状態です。例えばル・クルーゼのスキレットとか。

 個人的な理想としては「住」少しとんで「衣」「食」が並列というランク付けを希望なのですが、どうしても「食」が優先されがちです。「食」は気軽にお金を使う場があるからね。だから良くも悪くも「食」にお金をさいてしまう。個人的にはもっと「住」にお金をかけたい。
 ということを自分に言い聞かせる。




「あなたが私を恋人にしてくれたら。私はとてもいい恋人になる。別れたいなんて言い出さない。あなたを疲れされたりしない。あなたを困らせるようなことは一切しないから。私を恋人にして。」
 と10秒以内に一息で言う練習をして電話をかけた。あなたの番号は短縮の1番。あなたは私の1番。
 ところが電話をかけると、この電話はただいま使われておりませんというあなたの冗談。あなたは私が慌てたりするところを見てよく笑っていたね。だからきっとこれも冗談だと思って私は練習したとおりに一息で言ってしまうつもりだった。
 でも、空気を振るわせたのは私の悲鳴のような鳴き声だった。

 以上がソニン特集を読んでユウキとソニンの関係についての私の感想です。
 このあいだもユウキの誕生日で「おめでとう」って言いたかったんですけど、ケータイの番号もう変えてたみたいで。
 って普通だったら例えば浜崎あゆみだったらこれに乗じて自傷電波被害者ロリータ少女まっしぐらだと思うんですけど、ソニンちゃんはなんだか頭がおっつかないのか、自分が嫌われているってことに気が付いていないみたい。まぁ、ユウキも好き嫌い以前に忘れてるだけだと思うんだけどね。でも、普通の妙齢の女の子ならばここで一気に自意識過剰に打って出てもいいと思ったんだけどなぁ。

 ソニンは在日だからっていう理由が一番大きいけど、やっぱり「マラソン」や「ドミノ」でトラウマにならないだけの図太さが体の隅々までに行き届いてるんですね。「マラソン」や「ドミノ」がかっこよくならないけど、電波の理由にしていいはずなのにソニンは忘れてるかのように普通にふるまってるんだよね。それが痛々しいというよりもバカの領域に片足つっこんでます。どっかでこれに似たようなのを見た気がします。苦痛の体験がトラウマにならない、記憶が抜け落ちてるかのように日常を送る、常識外の苦行が待ち構えている…。わあ、綾波だぁ!(QJ表紙もどことなく綾波)綾波の場合、母なんか白雉扱いしてたから見る人が見ればソニンも綾波もいっしょくたなのね。ソニンにはなにやってもいいよ、三人目も四人目もいるから!  




 桃太郎、浦島太郎、シンデレラ、白鳥の王子などは鮮明に覚えていますが、くるみ割り人形やかちかち山となると記憶が鮮明ではありません。そんな童話懐古調な自分に活を入れるべく、「ハリガネムシ」とか読んでみようとするもこの胸のさざなみは一向に収まる気配を見せません。これは、恋?
 ハリガネムシなんて読んでないので知りませんが、童話が気になるのは本当です。本当は恐ろしい…というのではなくて、私が昔慣れ親しんだであろうあの話が読みたいのです。私は何であの童話を知ったのだろうという私の読書の原点でもあるこの旅は長く遠いものになりそうです。
 私が読んだ童話は全二十巻の童話集で、全ページカラー印刷でした。まさにコラボレーションといわんばかりの様々な画調のイラストレーターが挿絵をいれ、その挿絵によって読み返す話読まない話が明白な形となって今に現れたと思います。どうしても受け入れられなかった「くるみ割り人形」はまず挿絵のくるみ割り人形が大きくて子供と同じ大きさだったんです。そして、川に流されてねずみがちょっかいを出すところではくるみ割り人形の比でねずみが描かれるわけでして、つまり…うわぁぁぁぁと発狂。
 そんな童話集も妹が小学校入学を前に廃棄処分。今残っているのは同じ出版社?から出た「なぜなぜチュータ」という事典だけです。でも検索してもそんなものでてきやしねぇ。私の幻?とにかく探しています。チュータという白色無毛体の宇宙人がメインキャラの写真が一切使われていない事典です。これにはお世話になりました。夏休みの宿題のポスターを描くときなど。ありがとう、チュータ。ありがとう白色無毛体。




 暑い夏のなごりが漂うリビングで一人でそうめんを食べながらテレビを見ていた。花火の中継はちょうど花火会場に一番近い民家の密集したところにレポーターがスポンサー会社のビールを持った市民にインタビューをしていた。そこからパンしてビルの隙間から大きな花火が見えていた。あまりに大きな花火だったのであおるようにしてカメラは見つめていた。カメラマンが肩を動かして少しカメラの持ち方を直すような仕草をしたとき端に映ったヘリコプターから何かが落ちてきた。それがなにかわからなかったのは少しの間だけで次の瞬間には花火よりも明るい下品な光を発してそしてカメラは砂嵐となった。
 チャンネルをNHKに変えれば「国籍不明のヘリコプターから落とされた原子爆弾が花火大会の会場に落下、爆発し今現在詳しい状況はわかっていません。首相官邸には対策本部が設置され、早くも自衛隊の出動が決定されそうです」といつもの女性がしっとりと聞かせてくれた。携帯はスクランブル。もちろん、通常の電話回線も大混乱。私はテレビを消して、来るべき残酷な映像よりも遠くのことを思い、恐くなった。世界の終わりに一人はいやだ。
 目が覚めるとなんてことはない夢でした。時計は呪う時間を過ぎて、そのあと数時間後に今日が原爆記念日だということを思い出しました。ラジオですが、長崎の平和式典を始めて見ました。平和宣言の最中のたまの間に蝉の鳴き声が聞こえる風情に泣きそうになりました。でもこれってエヴァ。
 八月になるといっぱい第二次世界大戦特番がNHK教育のアーカイブでやるので見てるのですが、NHKはやっぱり民放なんかと違ってすごいなぁと思います。この尊敬が受信料を払う払わないとはまったく関係のない次元の意見ですけどね。
 




 冷蔵庫が壊れて冷たい飲み物が飲めなくなったときにちょうどエホバの証人が勧誘に来たのですが、冷蔵庫を直してはくれませんでした。神は死んだ。  









肌の焦げる音。扇風機のエロチシズム。太陽の捨て子たちの笑顔。塩素の香水。集合する暴走の色彩。温いアクエリアス。汗が乾いてできる塩。単調な青空とその奴隷の雲。蘇生しない室外機からの風。落ちる直前の線香花火。学生という暴動。老人の死亡記事。腐っていく空気の臭い。潤んだクーラーボックス。軋む髪の毛の悲鳴。咲く日傘。殺される植物。面会謝絶の祖父の臓器。覗く乳房。





 とても淡い君の肖像を見ていた。有線が繰り返すこの音楽と同じように、この夏が過ぎれば消えてしまうであろう君に僕は告白をできるだろうか。夏と共に音楽と共に消えてしまうならどうかこの音楽を止めてしまわないで、太陽が海に沈んでしまわないで。ふわりと浮かぶ白いスカートを追いかけて僕は君の大きなリボンの端を握った。そのまま君は僕の手をすり抜けて青い空の光になってしまった。君に言いたかったんだよ。好きだって。





夏が来たよ







 武田真治のサックスってご存知?あの噂の。私が吹奏楽部でサックスを吹いていたころの冬、友人がこう尋ねてきたんです。
「UNIQLOのCMで武田真治がサックス吹いてるんだけど、あれってサックスター(サクソフォニストの意)的にはいいの?…え?見たことない?あれねー、なんかばりっ、ばりっ、ばりばりっ!って言ってるんだよ。ホントだって!ばりっ、ばりっ、ばりばりっていうんだって!」
 二年越し?三年越し?天城越え?ぶりに聴きましたが、ばりっ!ばりっ!ぶひーって彼女の言ったそのものでした。うたがってごめんなさい。  




 ヘラクレイトスは「同じ川の中へ二度と入ることはできない」と言った。
 そこで私はこう聞きました。「変化というものはなんなのでしょうか?善へ向かうのですか?無へ向かうのですか?醜に向かうのですか?利があるのですか?」
 するとビョークが「変化というものに対してまず、何の変化なのか境界設定を明確にしなければならない。生物、植物、無機物、人工物。そして変化というものそのものも変化していくでしょう。あなたはその言葉は問いかけではなく、今から自分が発言することに対しての前振りにすぎません。」と言いました。
 すると湯川英樹が「人間の終着地点は死であることは、喜ばしいことにあと100年は変わらないだろう。死という最後に対してその経過が衰退、下降線、醜、悪だとは思いがたい。それは宗教のようなものである。」と言いました。
 すると宮崎勤が「人間の身体と切り離して考えた場合もまた違う結論になるであろう。例えば才能だけ見たとすると衰退という言葉はより真実味を増す。」と言いました。
 するとマリア・テレジアが「才能という他人に形成されるものに衰退というものはない。大衆の興味の流れの結果が才能を作る。変化は大衆によってあるものだ。」と言いました。

「私は。」
 そこで私は息を吸った。1月20日のような緊迫した喜びが体を巡る。私の頭からのびる一本の糸は地球を支え、太陽に繋がる。流れ星のような糸は全宇宙を走る。宇宙全ての星と闇を支える私を月は見ていた。
「腐ることと枯れることが終着点にある二つの選択だったなら、私は枯れることを選びたい。枯れることで枯れる前の自分と決別し、別物に生まれ変わりたい。もう二度と躍ることができなかったプリマドンナならば踊りの全てをやめてしまいたい。記憶にある華やかな自分を見て愛でるのみ。私は枯れゆくものが惜しくない。むしろ腐って醜い腐臭を発しながらも今に留まろうと醜くあるのはいやだ。そして、もしオペラ歌手ならば美しい歌を神に捧げることができたことに感謝をするが、未来の不安も過去の苛立ちも必要ないものだ。なぜなら今の歌が美しいからである。私は今を愛している。だからこそ枯れたいのだ、今を素晴らしいと思うが故に。今まさに微生物に食い殺され、現状維持を望む意思とは無関係に変化してしまうものたちに無償の愛と業火が降り注ぎますようにと祈りたい。私はどの状態が枯れるのかわからない。だがしかし、私は腐敗してはいない。」

 六畳の和室の無限の空間に人は誰もいなかった。居るわけもない、平日の14時。蝉は遠くで鳴く。業火のような太陽は今日も薄っく濁った雲で隠されている。2003年8月1日金曜日、第六感が芽生えそうな薄ら寒い自宅にて。